せやな。

チラ裏なのだけれども、最近チラシ無いので。

君の気持ちは、言葉一つで済むようなものか?

 googleの検索で普通のブログなんてヒットしなくなって久しい。仮にもし開いたサイトが誰かのブログだったとしても、開いてみたら大概、一番下にamazon商品リンクが張ってあったり、四面楚歌か?と言いたくなるほどちりばめられた広告バナーがある。これが2022年のブログ界隈であり、利益を求めておらず、かつ、なんの雑学にもならないような記事は「はてぶ」のサーバ容量を削るだけのテキストデータでしかない。ただ、「詮無い事はtwitterよりもブログに書く方が良い」とおみくじにも書いていたし、神様には従うが吉だ。

 

 さて、やはり俺の青春ラブコメは間違っている。は日本で崇められている神道における聖書である(嘘)が、比企谷八幡という男がピエロのようにつらつら思ってもいないことを喋っているのは読者は全員気づくところだろう。

 思春期を真っ当に全うしている比企谷がモノローグで本音を語れるわけがない。また、思春期を謳歌した比企谷が自分の身に余る三角関係を前に、意思通りの行動を起こせるわけがない。彼は自己犠牲という一番体のいい策しか思いつかない程度には八方美人なのだから。

 そんな比企谷が何を考えていたのか。旧約原書(小説本編)に書いていないことを妄想するのがこのチラ裏の主題である。

 

 俺ガイルにおいて重要な単語はいくつかあるが、終盤のキーワードは「本物」と「共依存」である。もともと問題をどのような手練手管で比企谷が解決するのか?という気持ちよさを楽しむ本であるが、終盤は解決は当然できること前提で”本物”の人間関係をどのように比企谷が実現するのか。ということにフォーカスがあてられる。

 

 比企谷の気持ちを考えるにあたって、問題解決自体は考慮しなくていいだろう。物語中は「自己犠牲はやめてほしい。」という周囲の気持ちを徐々に理解していたが、元来人間は自己犠牲なんて気持ちよくて仕方ないのだから、痛くもなかっただろう。そういう性格のものだし。中二病ならなおさらだ。モノローグで言っていないだけでな

 

 比企谷は純粋に思春期だったのだ。「本物が欲しい」と言っているが嘘だ。比企谷が語る言葉はすべてちょっとカッコつけている。「本物が欲しい」のではなく「偽物が気持ち悪い」だけなのだ。クラスメートが楽しそうにつるんでいる上辺だけの仲良しこよしが気持ち悪かったのだろう。それをかっこつけて欺瞞だと言い放つ。上辺ではない本物の人間関係が欲しかったかもしれないが、当初は手に入る算段が無かったのだから、欲しいとは思っていなかっただろう。

 

 思想が変わってくるのは京都修学旅行あたりからだろうか。もしかしたら文化祭かもしれないけれども。問題の根本解決ではなくて、ターゲットの気持ちまで慮って行動するようになり、周囲からも一目置かれ始め、限られた人から信頼を勝ち取り、晴れて欺瞞の人間関係を手に入れる。そもそも人間関係がなかった比企谷は欺瞞の人間関係に満足する。嘘まみれの上辺と呼んでいた人間関係が思ったより気持ちよく、しかも嵌っているときにはメタ認知が出来ておらず、自分がその渦中に居ることに気付いていない。実は読者もこの段階が一番気持ちよい。これまで問題解決という課題に対して努力していた主人公が、ようやく一目置かれる存在に成長して、比企谷ならどんな問題でも解決できるという全能感の片鱗を感じるからである。

 

 そんな中でやっかい且つ、本編のコメディ寿命を圧縮したのは雪ノ下と由比ヶ浜である。(事故設定なくても、比企谷の普段の魅力で恋は生まれるんだから、あの出会うためだけの設定いらなかったよ。コメディが減る原因だった気がする。)当然、一緒に行動して、その都度、小説のような鮮やな手腕で問題解決するその姿を一番近くで魅せられるのだから恋くらい生まれるだろう。一番近くの読者みたいなものだ。羨ましい。

 同時期、共依存という言葉で美人から難癖をつけられる。このあたりから三人の人間関係にフォーカスが当たり続ける。ついに欺瞞と本物について考える時が来た比企谷。

 

 さて、彼が四六時中言っていた欺瞞とは馴れ合いであるが、そこから本物に移行する必要が出てきた。当然部活仲間から関係が進むわけなので、恋人の関係を視野に入れる必要が出てきた。ここで、比企谷が雪ノ下と由比ヶ浜に恋心があったか?というと無かっただろう。思春期男子として学校で1,2を争う美貌の女子とあわよくば付き合いたい。の気持ちはあるだろうが、そんな欲望はメタ認知で自身をよく知る比企谷からすれば高望みすぎて恋心生まれようがない。という状態だろう。

 

 いよいよ依存をやめるために関係を断ち切ると腹を決めた雪ノ下の”せい”で悩む時間すらなくなった比企谷は答えを選ばなければ行けない。

 

 もはや私の恩師である平塚先生は「君の気持ちは言葉一つで済むようなものか?」と言葉を比企谷に授けているが、どう考えても解釈するには人生経験が不足している年代ですね。最後まで結局本物にこだわり続けた比企谷は、この私の恩師の言葉を受け止めていない気がする。非常に強い関係性にもかかわらず恋心が薄い比企谷の出した答えは”雪ノ下との関係を続ける”だったわけですね。比企谷の弾き出した本物は「自分の感情に嘘を吐かない」だった。もしかしたら、「付き合いたい」が思春期で形を変えて「嘘を吐かない」に変化したのかもしれないけれども、これまでと同じ関係性が気持ちよいから続けたい。が本心だと思いたい。最後にようやく読者に対してもモノローグで嘘を吐いていないと考えれば、小説としても綺麗ですし?

 

 本心が決まったところで、嘘を吐かずにプロムを成功させて、たどり着いた結果が雪ノ下と恋人関係。当時この関係に由比ヶ浜が居ないことが違和感でしかなかった。ここに至るまで比企谷の人格は少なからず血が知が通っていたし、雪ノ下と由比ヶ浜も血が通っていたが、最終巻で雪ノ下をなし崩し的に選び、由比ヶ浜を選ばなかった。小説の都合のようなものを感じた。「由比ヶ浜を選ぶべきだった。」なんてことが言いたいわけではない。比企谷が望んだものは由比ヶ浜の望んだ未来と寸分違わず現状維持だったはずなのに、終わった結果は恋人じゃん。奉仕部を雪ノ下と由比ヶ浜と続ける。否、奉仕部なんか無かったとしても雪ノ下と由比ヶ浜と関係を続ける。これに対して奉仕部は口実に丁度いいだけだったろ?

実妹と偽の結婚式を開いた高坂兄のほうがよっぽど血が通っている。と俺ガイル読後憤慨した。ってか切れてて後日譚はあまり深く読めていない。

 

 しかし、ここにきて本日の考察(妄想)が生きてきた。比企谷は結局欺瞞の関係に身を置いても他人に言われるまで気づかず、美人からの共依存なんて薄ら寒く安っぽい嫌味ですら真に受けて、恩師の言葉も深堀しないようなふわふわしたものなのだ。言葉遊びが好きな中二病で思春期の男子なのだ。つまり「雪ノ下との関係を続ける」部分は落ち着いて考え抜いた答えであることに違いはない(と思う)が、恋人の関係性は思春期の浮足立った心が話の流れとプロムの空気で導いただけであって、実は比企谷の心に飼っている中二病思春期男子が弾き出した答えではないのかもしれない。

 そういう方向性で納得すれば、こんな聖書も受け入れられるというものだ。比企谷はいまだに欺瞞というものが本物の関係性の始まり、入口の部分であることに気付いていないし、雪ノ下と由比ヶ浜どちらも大切な欺瞞であり既に本物の関係であることに気付いていないのかもしれない。

 

 だから俺ガイルの本編再開してくれねえかな~

 あの14巻が本物なわけないだろ~?