せやな。

チラ裏なのだけれども、最近チラシ無いので。

ふと思い出した幼少期の思い出。自転車の泥除けとお下がりの文化。

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 雨の中、自転車に乗り家に帰る。最初は雨が鬱陶しいなんて考えてもいたが、しばらくすると濡れてしまった服を見て、雨に濡れてしまっても、もういいか。なんて投げやりにもなったりする。しかし、まあ自転車というのはとてもよく作られている。どれだけ漕いでも、土が溶けた地面の水は自分にかからないのだから。泥水は車輪に巻き上げられ遠心力で上へ跳ねあがる。背中に泥水がついてもおかしくない仕組みのくせに、ZOZOで購入した僕のTシャツは雨しかかからないのだ。細部に神は宿るな~。など無駄な事を考えながら家路を急いでいた。しかし、ここまで考えて可笑しさに気づいた。どうやら自分は車輪の近くについている泥除けがあることに感動していたらしいが、そんなものはどれだけ安い自転車にもついているだろう。価格com曰く8000円くらいの自転車でも車輪の泥除けは付いていた。

 

 では、なぜそんなことをふと思ったのか。記憶を辿り、徐々に思い出してきたのが幼少期の記憶だった。たしか、兄が小学一年生になる時に自転車を買ってもらっていた。喜んだ兄を見て、僕も早く小学生になりたいと思った。兄が父親から自転車の手入れを教えてもらっている最中で父親は何を考えたか泥除けを取り外したのだ。この行為の真意はもう今となってはわからないが、父の性格から察するとマウンテンバイクの泥除けは少し不格好であったから、シンプルにするために取り外したのだろう。兄の同意もなかったはずだ。これを隣で見ていた僕は、何も感じなかった。感情のスパイスなど盛り付けず、事実をそのまま記憶したようだった。

 

 それから三年後、僕は小学一年生になった。兄は四年生になる。ここぞとばかりに僕は自転車が欲しいと親に強請った。親が取った行動は兄の自転車をお下がりで僕にあげるという行為だった。新しい自転車ではないという事実と、嫌いな兄が使っていたものを僕も使わなければならないという二つの事実に押しつぶされ、絶望した。しかし、薄々は気づいていたのだ。服もほとんどお下がりで、自分に買ってくれた服は臙脂色のTシャツくらいだった。話は逸れるが当時、買ってくれた服はすべて大好きな服だった覚えがある。ほかにも灰色のダウンと忘れてしまったもう一着は大好きな服だった。見た目や着心地ではなく「買ってくれた」という一点のみで好きになっていたのだ。

 

 話は戻るが、薄々は気づいていたのだ。兄は小学一年生で新品の自転車を買ってもらったが、僕には小学一年生では新品の自転車が与えられないという事実に。薄々気づいていたのに、期待してしまっていた。この裏切りで当時の僕は深く絶望した。兄弟間の喧嘩は両成敗だったし、ゲームなどは独占せずに平等にしなさいと怒るにもかかわらず、物を買い与えるという点では平等ではなかったのだ。大人に対する信頼がこれを機に明確に崩れた覚えがある。

 

 僕はお下がりで小学一年生の時に与えられた自転車に乗り、友達の新しい自転車に嫉妬し、遊んでいる途中で雨が降れば、Tシャツや体操服の背中についた泥で親に注意された。違うのだ、自転車を買ってくれてさえいれば。と不快になった。

 

 平等やこの社会の奇妙なバランス、歯向かってもどうにもならない出来事。これらに対する深い思考。きっと僕の中に昔からある「何が正しいのか?」という疑問は弟として生を受け、お下がりに対して不満を持った時からすでにあったのだろう。哲学の原点は幼少期にあった。

 

などと、自分が働いたお金で買った泥が跳ねてこない自転車に乗りながら、ぼんやりとお盆の末日に考えた。そういえば今年は父親の墓参りには行っていないな。