せやな。

チラ裏なのだけれども、最近チラシ無いので。

インターネットありきの性格


「連雀通りをまっすぐ進んだら帰れるから。」

 

さて、連雀通りとはなんだろうか。ただ、知らない言葉が出たところで板についた反射神経は思っても無いことを口にする。

 

「そうですね。連雀通り通ったらすぐですね。」

なんて返してしまう。知らないのに。

 

 これは性格で、知らない言葉が多すぎる社会を波風立てずに生きてゆくのに必要だった。立場上、新人でも「知らない」とは言えない環境だったのだ。おかげさまで、知らない言葉は後で調べる癖がついたし、結果的におそらく仕事で使う知識は他の人より少し知っている。知ったかぶりも悪くない。

 ただ、仕事に限らず、板についた癖は最早プライベートでも牙をむく。「○○監督の作品は~」「あ~○○監督ね。確かに癖が強いよね。」と全く知らなくても返しちゃう。お茶目な性格になってしまったものだ。

 気持ち的に余裕がない時にはよくやってしまっていたが、気持ちに余裕があるときまで、嘘をついてしまうと少し罪悪感や後悔、上手く嘘が通ったか心配。などの覚える必要のない感情が沸く。落語の転失気なんかを見てると、知ったかぶりの和尚に強く共感するタイプのろくでもない人間だ。

 

 知らないことを知らないと言えるのは幸せだ。

 これは最近、つくづくそう思う。人は自分が理解していることをを教える時、少し嬉しそうにするし、教えを乞うというのも悪くない。

 その人が真に理解している場合はインターネットでは得られないことまで教えてもらえる。と、実はそこまで人を評価するつもりはないが、実際、その人が理解していることを説明するときは、アフィに踊らされているこざかしい人間が書く文章よりも分かりやすいのは事実だ。(古い知識は踊らされていませんがね。)

 

 ここで少し思ったのは、インターネットが無かったらこんな性格にはなってなかっただろうな。という事だ。自分はキーボードを打って答えが返ってくるインターネット検索がおそらく好きなのだろう。

 インターネットが無い時代の人たちは知らないことを言われた時、どう対応していたのだろうか。有識者に伺いを立てていたのだろうな。でも自分はあまり得意ではないだろうな。なんて思ったりする。

 

 別に責任転嫁をする意図はないのだけれども、自分の「知ったかぶり」という性格はインターネットありきの性格だと。そう思う。

もちろんこれはインターネットのおかげでこうなったという意味だ。

 

 

 これが無い時代に生まれていたら、とりあえず嘘を吐き後で辞典で調べるような硬派な知ったかぶりになっていたか?いやなってない。そんな殊勝な人間じゃないからね。ただの嘘つきになったろうな。つくづくインターネットに助けられた人格だ。

 

東京は連雀通り。背負子(連尺)で行商する人たちに思いを馳せながら。