せやな。

チラ裏なのだけれども、最近チラシ無いので。

東のエデンをもう一度。

 「損な役回りするやつがいないんだ。俺をこの国の王様にしてくれない?」

 「大量の若者を連れて楽園に消えようと思います。つまり、将来の貴重な労働力を失うということです。」

 「上がりを決め込んでいるおっさんたちは今すぐ必死でため込んできたものを捨て、俺たちと新たな楽園に旅立つ決意をしてほしいのです。

 時期に既存の価値観が失われ、あなた方の思い描いた楽園も喪失する。」

 

 「この国のために何かを成そうとがむしゃらにやってきた。あれは過ちだったと汚点のように言われる。しかし、我々とてあの時代には右も左も分からぬ若者だった。我々の築き上げてきたもの誤りなら、正解はどこにあったのか。

 しかも、ようやく何事かを成したと思ったころに、世界のルールが大きく変わってしまった。この国が深みを増す前に新しい考えが優位性をもって台頭してきた。年寄にこのことを受け入れろというのは酷なことだが、それでも彼らに権限を委譲し責任を負わせてみろ。というわけか。

 敗者を嫌う事を良しとする趨勢の中、No.9はスケープゴートとなり火中の栗を拾を拾うという。」

 「noblesse oblige ―潜在的な救世主たらんことを切に願う。」

 

 それにしても、自分はこのアニメを何度見返すんだろうか。きっと3年おきくらいに、ふと思い出して見てる。

 最後のOUTSIDEは記憶を消しておいて「潜在的な救世主たらんことを」なんて言うが、とても皮肉が効いている。セレソンたちは100億も記憶もないけど救世主になってくれという事だ。ひどい話だ。

 俺たちは、またこのアニメを忘れる頃に救世主の心を忘れていないだろうか?

 

 ところで監督は一体どちらの視点から物語を描いたのだろうか。上がりを決め込んだおっさんサイド?既得権益に牙を立てて革命を求めるテロリストサイド?どちらでもいいが、非常にメッセージ性が強かった。ともかく、既得権益に対する意思が非常にはっきり表れている。アニメでは物部が、映画では滝沢が。

 

 アニメでは「損な役回り」をする人間がいないから、嫌々王様になることを決意するが、映画では打って変わってテロリストで締めくくっている。ここに特に大きな意味はないだろう。ただ、アニメではあくまで受動的行動だったが、映画ではアクティブな行動にシフトしている。話が進むにつれて滝沢の中で本質的に日本を少し変えてやろうという意識が芽生えたんだろう。

 きっと現代の日本に置き換えて考えた時、行動を起こさなければならないのはおっさんと若者の両者であって、どちらが悪いというわけでもないんだと思う。明確に言及されているのは今回おっさんの方だったが、東のエデンに出てくる若者の代名詞であるところの”ニート”諸君は頭を使っていない連中が多い。オルテガ曰く大衆だ。揶揄されていることに気づかないほど視聴者は鈍感ではなかっただろう。

 見た後に、間違いなくこの強いメッセージ性に何か考えさせられるはずだ。だから、こそ最後の一言が耳に痛いんだろう。「潜在的な救世主足らんことを」

 このアニメを、この熱を忘れたころに、それでもまだ救世主を心にもっているだろうか?

 

 

 ミサイルなんか落ちなくてもこの国は死に向かっている。